シネマ

 2000年3月26日、「Todo sobre mi madre(オール・アバウト・マイ・マザー/母の総(すべ)て)」で、スペイン監督としては歴代3人目のオスカー受賞監督となった、ペドロ・アルモドバル(ちなみに1人目は1982年「Volver a empezar(黄昏の恋)」のホセ・ルイス・ガルシ監督、2人目は記憶に新しい1993年「ベル・エポック」のフェルナンド・トゥルエバ監督)。青年時代にアメリカ映画とアメリカン・ポップカルチャーに影響を受けたアルモドバルのこと、のどから手が出るほど欲しかったのは当然でしょう。オスカー授賞式当日に掲載されたスペインの「ディアリオ16」紙の独占インタビューでは「もしも、オスカー獲得マニュアルがあったなら…」と嘆いていました。もちろん、「オスカー獲得マニュアル」は受賞者各個人によって異なるわけですが、アルモドバルの場合はどうだったのでしょうか。ここに検証してみましょう

中級階級の農家に生まれる
 1951年9月25日にカスティーリャ・ラ・マンチャ地方のカルサダ・デ・カラトラバ村(シウダ・レアル県)の貧しい農家に生まれる。家族構成は、父、母、そしてペドロ・アルモドバルを含む四人兄弟姉妹の計六人。農業を営み、家畜の世話に追われ毎日食べていくことで精一杯な、当時のスペインでどこにでも存在した貧困家族。この幼年時代の貧困生活の中で培われたハングリー精神が成功へのエネルギー源となったと思われます。農村での幼児体験は、「グロリアの憂鬱〜セックスとドラッグと殺人」に多く反映され、ロバ、ウサギ、鶏、アヒル等の家畜たちの世界は「グロリアの憂鬱〜」、「神経衰弱ぎりぎりの女たち」、「アタメ」、「ハイヒール」など、多くの作品に描き出されました。ほかにも、農村女たちのおしゃべりや好み、キャラクター自身は彼の全映画にちりばめられ、アルモドバル映画に無くてはならないこれらの重要な要素はこの時期に吸収されたようです。「マンチェゴ・ディレクター」と呼ばれる所以(ゆえん)がここにあるのでしょう。

8歳で引っ越しを経験し宗教信仰を失う
 8歳で家族とともにエストレマドゥーラのカセレスに引っ越し、小、中学校で教育を受け、映画鑑賞にはまり込んでいきます。また、この時の「粗末な宗教教育」によりキリスト信仰を失いますが、ちょうどその時期、1961年に映画界に歴史的出来事が起こりました。ルイス・ブニュエル監督の「ビリディアナ」がカンヌ映画祭で大賞を取り、その過激的、反カトリック的な内容からスキャンダルとなり、ブニュエル監督自身、8年後の1969年までスペインに戻れない身となりました。この映画が映画オタク、アルモドバルの宗教観に何らかの影響を与えたことは確かでしょう。

一六歳で自立を目指し、独自のスタイルを見つけだす
 1967年に、親からの援助もないまま「成功するまでは絶対に戻らない」と、弟のアグスティンとマドリッドに移る。この「スペインの片田舎」から「大都市マドリッド」への変化は16歳の若者には衝撃的で、生まれ変わったかのように映画、文学、愛、友情、性の本質(=自由、文化)を発見し吸収していきます。ちょうどこの時期、自由の象徴のヒッピームーブメントが全盛期。1968年にパリを中心に展開された、学生を先頭とする革新的反体制運動「五月革命」とともにアルモドバルに影響を与えています。また、同時期に大きな影響を与えたものの一つにポップ・アートがあります。まさにこの頃、アメリカのアーティスト、アンディー・ウォーホールがその頂点に達していました。このウォーホール自身、60年代中期にペイントから映画に創造の場を変えており、その後300以上の作品を生み出しています。ウォーホールのアートと彼の存在そのもの、そしてヒッピームーブメントがアルモドバル映画のアーティスティック面の土台となっているようで、彼のポップ・スタイルはこの時期に培われているようです。

海外旅行を経験し、社交性を高める
 また、この時期にすべての文化イベントに顔を出し、ヨーロッパ内で当時自由でモダンといわれたイギリス、ロンドンへの旅行を経験しています。そして、人当たりが良く、インテリで、挑発的な彼は各パーティーごとに皆の注目を集めていきました。

22歳で第1作目の短編映画を製作
 第1作目の短編映画は10分もので、1974年に8ミリカメラで製作され、タイトルは「Dos putas o historia de amor que termina en boda」(*二人の売春婦-結婚式に終わるラブ・ストーリー)。内容は「ヒッピーの『フリーラブ』によりめっきり仕事の減った売春婦が、客取り戻し合戦の末、結婚…」というような話だったそうで、この短編は映画祭などには送られず、パーティー仲間で集まって上映会が開かれたのみ。

昼は、サラリーマンとして働き、夜はアーティストとして活躍
 やはり、アーティストだけで食べていくのは大変だったようで、昼間は就職試験に合格したテレフォニカで働き、しかし、いったんオフィスを出るとアーティストに変身。75年、フランコ死去により独裁制が崩れ、映画界も作品に対する検閲が緩和されていく中、シアターや映画のエキストラとして出演し始め、劇団ロス・ゴリアルドスを結成。さらにマドリッドの「ラ・ルナ」誌で執筆家としても活動を始めます。そしてこの1974年から1978年の4年間に何と10本もの短編を製作しています。(表参照)
 現在、このほとんどの初期アルモドバル8ミリ映画作品は一般には見ることが出来ず、その理由は「身内以外に見せない」「失ったシーンが多くある」「フィルムのダメージがひどく上映に耐えられない」等のようですが、弟であり、プロデューサーのアグスティン・アルモドバルによると、将来、時期が来れば短編集をビデオにしてリリースする予定とのことで、待ち遠しい限りです。

第1作目の長編映画を製作
 1978年に初めての長編映画を8ミリで製作。一時間半の作品は「Folle, folle, fólleme Tim」という放送禁止タイトルで、とある倉庫で働く貧しい娘が盲目のギタリストに恋をし、彼はギターで有名になるが、彼女も最後に目が見えなくなってしまう、というメロドラマ。日本でも1935年と1961年に「お琴と佐助」(順に島津保次郎監督、衣笠貞之助監督)という同じ様なテーマの映画が製作されています。もしかしたら、このアルモドバル長編映画第1作目はこれらの日本映画からインスピレーションを受けたのかもしれません。
 同年78年に8ミリ長編を経験した彼は、いよいよ8ミリから16ミリへと、よりプロに近づきます。タイトルは「Salomé11分)で、「ベールの起源」を題材にしたもの。

サラリーマンを辞めプロ映画監督の道を歩み出す
 16ミリ短編映画の予定で作り始めた「Pepi, Luci, Bom y otras chicas del montón(*ペピ、ルシ、ボムとその他大勢の娘たち)」が、その脚本に魅せられた女優カルメン・マウラの援助により長編映画に発展。映画は3年間の試行錯誤の末、1980年に完成。製作費と同額の800万ペセタでプロデューサーのペポン・コロミナスに売却。このマドリッド・ムーブメント(movida madrileña)を題材にし、またそのムーブメントの一部そのものとなったアンダーグラウンド映画は、プロデューサーにより35ミリに拡大コピーされ上映されるとともに、スペイン・メディアの中に論争を巻き起こしました。この頃、12年間働いたテレフォニカを退職。


問題作となる映画を次々に発表
 ここからは皆さんもご存じのとおり、1982年から1年に1本の割合で、次々に問題作を映画界に送り出しています。
1982「セクシリア」(35ミリ100分)。第一作目「*ペピ、ルシ、ボムとその他大勢の娘たち」の続編・補足として製作された、引き続きマドリッド・ムーブメント内のアンダーグラウンド・ムービー。
1983「バチ当たり修道院の最期」(35ミリ115分)。ムーブメントから離れ、パーソナルな主題に戻ります。テーマは「孤立からの解放」。
1984「グロリアの憂鬱〜セックスとドラッグと殺人」(35ミリ102分)。当時、映画の主人公にはなり得ない人物、「主婦」を主人公に。
1985「Trailer para amantes de lo prohibido(*禁じられた愛人・予告編)」(テレビ用ビデオ・フォーマット25分)。テレビの人気音楽番組「エダ・デ・オロ」用に製作したミュージカル・コメディー。
1986「マタドール」(35ミリ96分)。インスピレーションは大島渚監督の「愛のコリーダ」(1976年)。
1987「欲望の法則」(35ミリ100分)。アルモドバルのバイオグラフィーといわれる作品ですが、「主人公は監督自身ですか?」という問いに、「分からない」と答えています。

国際的にヒットする映画を撮る
 1988年代のスペイン映画史上興行収入第1位となった、「神経衰弱ぎりぎりの女たち」で国内外の映画賞を独占し、海外の配給権をミラマックス社が入手。国際的大ヒットとなり、アントニオ・バンデラス、カルメン・マウラのハリウッド進出のきっかけとなりました。この時、アルモドバル監督自身もハリウッドで映画を作るオファーを受けますが、「こんなに有名になってしまって怖い、(ここでオファーを受けると)将来的に自分自身にとって有害だ」と、 スリラー映画「La mujer tóxica」(後のアタメ)の撮影のためマドリッドに戻ります。ここで主演女優をカルメン・マウラから、既に大島渚監督などと「マックス、モン・アムール」(1986年)で仕事をし、国際的スターになりつつあったビクトリア・アブリルに変更。この「アタメ」(1989)は完成前からアメリカがリメイクの権利を買うなど、リリース以前に国際的ヒットの太鼓判。その後、坂本龍一のサントラが記憶に新しいミュージカル・メロドラマ「ハイヒール」(1991)で初めてマドリッドの外へ。ハリウッドでの仕事のため出演できなくなったアントニオ・バンデラスに代わりミゲル・ボセを起用。その年のスペイン代表オスカー出品作となります。
 1994年にアメリカで上映された「キカ」は、ポルノグラフィー同様「X」扱いになり、相変わらず映画界を騒がしますが、アメリカ映画評論家の間では評判上々で、世界中で取った賞の数、何と19。
 その後、女流文学者たちに捧げる「私の秘密の花」(1995)。初の小説からの脚色となった「ライブ・フレッシュ」(1997)へと続きます。

アカデミー賞受賞作品を作る
 1999年「オール・アバウト・マイ・マザー/母の総(すべ)て」製作。この年、アルモドバルの映画人生の上で大きな支えとなった人物、アルモドバルの母親が亡くなり、この映画は彼女に捧げられました。

オスカー受賞準備のため、アメリカ中を飛び回る
 アカデミー賞授賞式の前に、ニューヨーク映画評論家サークル、ロス・アンゼルス映画評論家協会、ナショナル・ボード・オブ・レビュー、 放送評論協会、パーム・スプリング国際映画祭と、セレモニー出席のためアメリカをジグザグ飛行。高所恐怖症のためスイート・ルームに泊まることのできない彼が、めまいも振り切って授賞式のために超高層ビルの106階までも行きました。更に各メディアへのインタビュー、写真撮影、DVD用のインタビュー撮影、オスカー審査員のための試写会、合間を縫ってバンデラス邸訪問、ショッピング…。オスカー受賞日が来るまでカリフォルニアビーチで「のほほん」というわけではなかったのです。

オスカー受賞式に出席
 「本物のインディペンデント・アーテイストなら、ウッディ・アレン監督のようにすべての賞をボイコットしろ。保守的老人が投票するエンターテイメント『アカデミー賞』などもっての外」と、古くからのアルモドバル・ファンの間で厳しい意見もあったようですが、ご存じのとおり出席しました。受賞しました。「ペェェドロォォゥ!」

 以上、オスカー受賞のためには、片田舎の実家で寝転がって夢を見ているだけではいけないということのようです。
(注)本文中*はすべて仮題

篠原勇治