スペインは歴史の街。紀元前3,000年ころアフリカから渡ってきたイベロ族、その後フェニキア人、北からのケルト人、ローマ人、ゲルマン諸族、そしてイスラム勢力の拡大とともにやってきたベルベル人。多様な民族の混合は、長い歴史の中でこの国独特の文化・風俗・習慣を生みだし、人間模様を織りなしている。
このようなスペインの多元的であり多様な歴史は、今でも街のあらゆるところに壮大なドラマを秘めて残されている。スペイン各地に残されている『古城』を訪ねると、この国のもつ入り組んだ複合性を垣間みることが出来るでしょう。

第21城 サグント 前編
(バレンシア県)

●建設年代:ローマ時代から、修改築が重ねられてきた。
●アクセス:バレンシアからA-7で23km。
●保存状態:城壁は保存されているが、城塞は廃墟。
●見学:火-土10:00-18:30、日10:00-14:00。月休
●周囲のみどころ:ローマ遺跡要塞跡の東下、丘の麓の半円劇場(見学時間:火-土10:00-14:00 / 17:00-18:30、日10:00-14:00。月休)は1世紀の建設。最近修復され、劇場として使用されている。要塞跡の中心付近、入口の周囲では、ローマ時代の神殿、フォーラム、浴場の跡などが発掘され、発掘品は、城壁内の小さな考古学博物館(見学時間:城と同じ)に展示される。市内のディアナ神殿跡(サンタ・マリア教会に隣接)は、紀元前5−4世紀の建設。ハンニバルの包囲も、ゲルマン人の破壊も乗り越えて、現在に至る。

丘の頂上をぐるりと城壁が巡り、全長1キロに及ぶ広大な要塞跡です。古代から現代までの歴史がぎっしりとつまったお城。時代によって、サグントゥム→ムルビエドロ→サグントと、名前も変わってきました。
ここに最初に居住したのはイベロの人々。当時はアルセ(Arse)と呼ばれていました。後に、ギリシャ人が砦(とりで)を建設し、そして、紀元前二一九年これをカルタゴが攻略。カルタゴは、それまで500年にわたってイベリア半島各地に植民地を築いていましたが、比較的緩やかな統治で、植民地にはかなりの自治が許されていた様子。しかし、この頃から、カルタゴがイベリア半島における支配権強化を目指すようになると、「サグントゥム」は、カルタゴの支配を嫌い、地中海で覇権を伸ばしていたローマに接近。ローマ対カルタゴの地中海覇権争いは、サグントゥムを巡って、最後の山場、第2ポエニ戦争(紀元前218〜201)に突入します。この時のカルタゴ将軍はハンニバル。城壁を包囲し兵糧攻めにするカルタゴ軍。食料も水も底を突いたサグントゥムの住人に、ハンニバルは、砦を捨て、武器と財産を残して他に新しい都市を造るよう、和平協定を持ちかけます。強大なカルタゴ軍に勝てる見込みはなし。しかし、住人は、この協定を飲む代わりに、広場に火を起こし、金銀や財産を投げ込むと、自らも火の中に身を投じたとも言われています。
サグントゥム攻略に要した月日は8か月。後世、この時のサグントゥムの抵抗は、ローマに戦いを挑んだヌマンティア同様、外国人の侵入に果敢に挑戦したスペイン人の英雄的な戦いと賞賛され、『血と砂』で有名なバレンシア出身の作家ビセンテ・ブラスコ・イバニェスも、『Sonnica la cortesana』の中にその様子を描いています。
カルタゴを抑えたハンニバルは、ここから、ローマを目指す有名なアルプス越えに出発! しかし、ハンニバルはスキピオ率いるローマ軍に敗れ、カルタゴは壊滅。2年後にスキピオにより再攻略されたサグントゥムも、ローマ都市として生まれ変わります。
現在の要塞跡は、ローマ時代の城壁跡を利用して、イスラム教徒が建設したもの。城壁はローマ時代の集落とは一致しておらず、城壁外南・東方向にローマ建築跡、また、西方向にはイベロの城壁跡も発見されています。
ゲルマン民族の大移動の際、サグントゥムは徹底的に破壊され、西ゴートの人々は、破壊されたローマの城跡を「ムルス・ヴェトゥス=古い城壁」と呼びました。その次は、八世紀にイベリア半島をほぼ支配下に置いたイスラム教徒。彼らは、この要塞を「ムルビテル」と呼び、更にこれが訛った「ムルビエドロ」という名称は19世紀まで使われていたとのこと。次回は、「ムルビエドロ」の時代です。

小林真紀

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